日報王

日報です!

これは詩か?

 もう詩でいい。いや、詩がいい。日誌ならぬ日詩。 他人に見せるのは恥ずかしい。でもブログには上げちゃう。この矛盾。 結局他人とは知人の誤りか。互いに見知らぬ者同士なら恥ずかしさもあまり無い。少なくともこのノートを共有することに関して言えば。

 

 これは詩か。今までの日報と何が違う?意識が違う。意識だけが違うとも言い換えられる。昨日指先にあまりなじまないなと感じていた新しいボールペンも、すでに違和感があまり無い。慣れは思うよりすぐやってくる。意識を変えることにも慣れる。あきる。枯れる。

 もうこれは詩だ。名乗ってしまっても、誰も異を唱えない。誰も、異を唱えるに、意識をこの詩に払わない。意識は限りある資源。 時間に限りがあるように。限りある資源は大切なことに、大切な人に、大切な時間に大切な使い方をしたい。「興味の無いものへ意識を向ける」ことそれ自体への興味が無い限り皆興味のあるものへ意識を使う。 限りある資源はそういう使い方をされながら枯渇していく。

 

  詩は枯渇しない。限りある意識が詩を創作することに 使われたとしても、詩に限りは無い。使える意識が限られているだけ。 仮に枯れてきたとして、その枯れ具合が詩を創らせる。これは 論理的な説明文。こうだからこうだ。詩のような言い方の対極。

それを対極だ、とする詩への偏見が露わになった。

  

  これは詩か?

 


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